バースデイ。そしてカウントダウン


“人生は自分探しではない。人生とは、自分の創造である。”

– ジョージ・バーナード・ショー


“人生とは自転車のようなものだ。
倒れないようにするには、走り続けなければならない。”

– アルバート・アインシュタイン

短いようで長く、長いようで短い人生。
その中を区切る一年という単位の中で、どうしても自分自身と向き合わなければいけないような気にさせる日が僕にとっては少なくとも3つある。
ひとつは年初めとなる元旦。
そしてもうひとつは誕生日だ。
のこりのひとつについては後述する。
2011年2月10日。
34回目を迎えたこの日に、自分自身の心を整理するために極めて私的なエントリをしようと思う。
冒頭にあげたふたつの引用文は、どちらもいわゆる『成功者』と呼ばれる偉大な人物が残した人生に関する名言。
たまたまこのエントリを覗いてくれた方にも何か感じられるものがあるのではないだろうか?
ただ、これ以下の内容は本当にとりとめのない内容なので、誰かの役にたつような内容ではないので期待しないで頂きたい。
カッコ良く言えば独白。単なるヒトリゴトだ。

過ぎ去りし日々

僕は34年前の今日。28才の夫婦の長男として産まれた。
つまり、ふたりが今の僕の年の頃には小学校一年の子供がいた計算になる。
当然当時のことは憶えてもいないし、その頃の話を親から聞いた記憶もないのでどんな状況だったのかは分からないが、まだ若かった両親も多くいる親戚(父は7人兄弟)もきっと喜んでくれたのではないかと思う。
その後、僕にはふたりの妹ができ、5人家族になった。

幼かった頃の自分の記憶を辿ってみると、お世辞にも『誰からも好かれる可愛い子供』ではなかったと思う。
人見知りで引っ込み思案で挨拶もまともにできない上に『ごめんなさい』と言うのが何よりも苦手な子供だった。
そのうえ泣き虫。
まぁ、控えめに言っても『イタイ子』だ。
(今の僕は結構な子供好きだと思っているが、こんな子供は苦手。。。)
それでもふたりの妹や近所にいるいとこ達とは毎日のように子供らしく遊んでいたし、暗い子供ではなかったと思う。
当時はゲームと言ってもゲームウォッチくらいしかなかったし、今の子のように一日中やっていられるほど夢中になれるゲームを僕は知らなかった。

いとこは多分20人近くいる(数えたことはない)が年の近いいとこ達の中で一応一番年上だったので、ほんの少しだけだがリーダー的な役割をするのは自然と僕になった。
良いことを率先した記憶は思い出せないが、みんなでいたずらや悪いことをするのは僕が言い出したことがきっかけだったように思うし、当然真っ先に怒られるのも僕だった。

近所の家の鍵を壊したり、父親のゴルフバッグを持ち出して近くの芝生で遊んでいて、自分の家の窓を割ってしまったこともある…
まぁ今となっては、子供の遊びとしてはちょっと人に迷惑かけすぎだろ!と思うことが多すぎるので、これ以上は。。

学校と友達と初恋と

そんなイタイ子もそれなりに成長するもので、当たり前だが小学校に入学する。
ただ環境が変わったからといって、自分が変わろうとしない限り人は変わらないものだ。
僕は相変わらず甘えん坊で人見知りでわがままなまま小学生になった。
いつでも親指をくわえるクセは治らず、時々先生や同級生にからかわれた。
今思い出しても恥ずかしくなる話だが、なんとなくそんな自分がいまでも心の奥にいるような気がしてならない。。
そんな僕にも友達はでき、相変わらずバカをやったりオトナだったら許されないようなこともした。
この頃に調子に乗りすぎて作ってしまった傷跡はいまでも右足に残っている。
話はガラッと変わるが、もちろん初恋ってやつも経験する。
同じ地区内に引っ越してきた同級生で、とにかく可愛い顔の女の子だった。
ただ当時の僕は女の多い家族のなかで暮らしているにも関わらず、女の子と話したりするのが本当に苦手だった。
この苦手意識は高校までつづく事になるのだが、当然気持ちなど伝えられるはずも無く『◯◯君と付き合っているらしい』という風のウワサとともに初めての恋はあっけなく幕を下ろした。
それからその子とは、二十歳の成人式の時に再会(と言うより見かけると言った方が正しい)することになったのだが、その子ひとりの周りにゾロゾロと男たちが取り巻いていたのにはがっかりした。。
まぁ、相変わらず可愛いままだったからそれも仕方ないことだろう。

肝心な勉強の方はといえば、自分で言うのも何だか丸暗記する系統のもの以外はそれなりに出来ていたと思う。
授業中にノートさえとっておけば宿題などやらなくてもテストでヒドい点をとることはなかったし、クラスでも上の方だった。
小中学時代の僕は、とにかく性格が一年ごとにコロコロと変わるような子供だった。
勉強で言えば、去年までまったく宿題をやらなかったかと思えば次の年には人が変わったように出された宿題の倍をやってきたり。
友達以外とはほとんど口を聞かない引っ込み思案が急に学級委員長に立候補してみたり…
まぁ、当時の友達は付き合っていくのが大変だったんじゃないだろうか?
どうして自分がそんなことをしていたのかは今でも全く分からないが、とにかく『変なヤツ』だったことは間違いないと思う。
この頃の自分にひとこと伝えることが出来るとしたら、言ってやりたい。

『変なヤツはモテねぇぜ!』って。

父親という存在。

母親とはいまでもよく口喧嘩になってしまうことがあるが、僕は完璧なおとうさんっ子だった。
父はとにかく子供が好きな人だったし、よく子供たちと一緒になって遊んでいた。
いとこ達がそれぞれの親の文句を言っている中でも『でも、◯◯っちゃんは大好き!』って言うくらい。(いとこたちはみんな父を名前で読んでいた)
それでも自分の子供には厳しい父親だった。
遊びのためならいくらでも車で色んな場所に連れて行ってくれたが、どんなに天気が悪くても遅刻しそうでも学校まで車を出してくれることはなかったし、送ってくれと頼んでも無視されて泣きながら歩いて登校したことは今でも憶えている。
今思えば、これも父親としての愛情のひとつだったのかもしれないが、当時の僕にはキツイ仕打ちにしか思えなかった。
そして僕が中学卒業を迎える年に、それまでの人生で最大の出来事が起こることになる。

『お父さんがなくなったよ。』

それは深夜、子供なら当然寝ている時間に親戚のおばさんに体を揺さぶれながら聞いた第一報だった。

それは信じられないと言うより、状況がまったくつかめない気持ちだった。
だから哀しくもないし、驚きも動揺もできず、ただただおばさんの言っていることの意味が分からなかった。
その言葉は僕にとって、真夜中に遠くで泣いている耳障りの悪い猫の鳴き声のようで、心地よい睡眠を邪魔するもの以外のナニモノでもなかった。

身近な人の死と向き合うということ

そのあと、また何度か起こされたような気がする。
原因は交通事故だった。
父は本当に面倒見のいい人間で、よく仕事終わりに仲間を連れて同級生がやっている行きつけの寿司屋に飲みに行っていたのだが、その帰りに車で反対車線に飛び出してしまい大型のトラックと正面衝突した。
父が乗っていた車は炎上し、ほぼ即死状態だったのだと言う。
あとで知ったことだが、父は家とは反対方向に向かって走っていたようだ。
それでも被害者のはずの運送会社の方々は『会社側の過失としてもらって構わない』と言ってくれた。
お陰で父の保険金は支払われ、残った僕ら家族4人はなんとか路頭に迷わずにすんだ。
完全にこちら側の過失なのにも関わらず、そのような慈悲深い判断をして頂けたことを本当に心から感謝している。
そしてその後の激動の経済状況の中、その運送会社は今でも同じ社名で変わらずに活躍されている。

そしてこれは本当に良くない話なのだが、父の後を追って自殺した人間もいた。
彼が親身になって面倒をみていた仲間の中には、他の人たちにはまったく相手にしてもらえないような人間も多くいたようで、彼らの人生はその後音を立てて崩れてしまったのではないか、と思えるような話を何度か耳にした。

父の葬儀は、それまでの慣習にならい自宅で行われることになった。
その頃にはさすがに僕も父親が死んだことを頭では理解していたが、心は全くそれを拒否していて、通夜をはじめるために部屋から引っ張りだされるその瞬間まで、ひとり部屋に閉じこもってブルーハーツの『終わらない歌』を何度も何度も爆音で聞いていたのを憶えている。
その爆音を鳴らしていたのは父が買ってくれたCDラジカセだった。
最後の父の姿を目に焼き付ける事も叶わなかった。ヒドい事故のせいで棺桶に眠る父の顔を見るための小さな窓は固く閉じられていたからだ。
その時の僕にはすべてが『クソッタレな世界』だった。

その日、小さな家の前には慰問客のために2つほどのテントが張られていた。
当時の友達や近所の同級生(中には例の初恋の子も)来てくれていた。
これも後で聞いた話だが、さほど有名とは言えない個人の葬儀にあれだけの多くの慰問客が並ぶのを見たことがない、と何人かの大人たちが話してくれた。
例えばあれから10年以上経った今でも地元の集まりに顔を出すと、父親に良くしてもらったというたぐいの話を耳にすることが多い。
それだけ公私問わず父が慕われていた事を聞く度に、多くの人の中に彼の存在が褪せていない喜びとともに自分の小ささや人付き合いが上手でない事に不甲斐なさを感じずにはいられない。
僕は涙は流さないと決めていた。
悲しみに暮れる母やワケも分からないまま泣いているふたりの妹の前で、家でたったひとり残された男が弱さを見せてはいけないと。
だからじっと、ただじっとしていた。
それでも、誰かが『大変だけどガンバってね』と声をかけてくれた直後、とめどなく流れ出そうになったものを食い止める事は出来なかった。
その瞬間に僕には分かったことがあった。
それは、

『葬儀は旅立った者のためではなく、
これからもそこで生きていくものの為にあるんだ』と。

父の死んだ日は同時に彼の42才の誕生日でもあった。
そしてその日は、その後の僕にとって今の自分と道半ばで終えた父親の人生との差を客観的に見つめ直す大切な日となった。

不意に手に入れた自由と本当の自由

ただ残念な事に、それから僕の生き方が180度変わって劇的に良くなるような事はなかった。
散々わがままに振る舞って母を泣かせる事も少なからずあった。
甚だ不謹慎だと思われるだろうが、自由を手に入れたような気持ちになった事もあった。
それでも、これだけは言える。
『父が亡くなってよかった』と。
こう言うと確かに誤解されるとは思うが悪意はない。
本当に心から思う。
あの父の死が、今の自分を創ってくれたんだと。

あれから素晴らしい出逢いや別れも数えきれない程あったし、就職をしたり自分なりにかなりきつい経験もしてきた。
後悔だって腐る程あるし、ここがどん底だなと思うような体験もした。
それでも僕は今、自由を実感している。
ただそれはあの頃感じていた自由とはまったく違う自由だ。
若くして親を亡くした子供(特に父親を亡くした息子)は、自分がその親の年まで生きられないのではないか?と思い込んでしまう傾向があるのだと言う。
だとすると、僕はあと8年でその日を迎える事になる。
あとたった2,922日だ。
あと3,000日足らず。
もう既にカウントダウンは始まっている。

決別と船出

端から見れば『いつまでもガキみたいな事を考えて…』と思われる事を僕は今している。
きっと父が生きていても全く同じ事を言われる気がしないでもない。
同じ年だった頃の父と比べても劣っているに違いない。
34にもなる男が結婚も出来ずに細々とバイトを転々としながら、学校で学んだわけでもないプログラミングをして売れるかどうかも分からないアプリを作るためにパソコンの前で何時間も座っているのだ。
それを咎めない大人がこの日本に何人いるだろうかとさえ思う。
(僕にとって開発自体はひとつのツールでしかないのだが、それを周りの大人にくどくど説明しようとは思わない。)
でも、今僕がいるこの場所は、誰になんと言われようと大きな航海に出るための港なのだ。
確かに僕が乗り込もうとしている船は、多くの人の目には荒波を渡っていけるはずのないチープな作りの船に見えるのかもしれない。
それでもこの船を出向させる事に大きな意味を感じざるを得ないのだ。
それはちょうどチャールズ・リンドバーグがスピリットオブセントルイス号に乗り込んだ時のように。
たとえ人から自殺行為だと罵られようと大西洋単独無着陸飛行を成し遂げた人間もいたのだから。

それと同時に父のように多くの人の力に、楽しみになれる男になるために最善を尽くしていこうと思う。
これは本当に簡単な事ではないし、また誰かを傷付けてしまう事もあるかもしれない。
それでもそうあるために進み続けようと思う。

そして、人生の最後の日。
本当に心から愛する人たちに囲まれて心静かにその日を迎える事が出来るように。
 


“成功は成し遂げた内容によって測られるのではない。
その人が出くわした障害の大きさと、打ちのめされそうな困難に立ち向かって奮闘を続けた勇気によって測られるのである

– チャールズ・リンドバーグ

 

おとうさん、
遅くなったけどありがとう。
– 34歳になった息子より。

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